電車男 映画版
「電車男」の映画版を、週末見てきました。
映像に文字・AAを取り込む際、色々な表現方法を使っていて楽しませていただきました。2chの雰囲気を一般人の方も少なからず感じる事ができるのではないでしょうか。
シナリオとしては次第点というところでしょうか。私としては誇張表現が目に付きました。デフォルメして描いたとは思うのですが現実感を喪失していたのが残念です。
とくに後半、電車男とエルメスの想いがすれ違うシーンがあります。これは映画オリジナルのシナリオになりますが、物語を盛り上げるために脚色しすぎて、リアリティに欠いています。電車男という物語の売りは、リアルタイムで進行する現実感のある奇跡、だと思っています。あからさまな嘘を描いちゃ駄目でしょう。
告白場所を秋葉原にしたというのも映画的だなと。コンタクトが外れ、服を脱ぎ捨てて、ヲタTシャツにメガネの元の姿に戻したのは、素のままでの告白を表現したかったからでしょうか?
その辺りにメッセージ性を持たせたいと思ったのかもしれませんが、あまりにも強引すぎて白けました。
電車男を演じた山田くんの演技が光ります。ヲタルックを脱ぎ捨てた後も残る挙動不信さが、コミカルで笑えます。これで、また一般人によるヲタへの偏見が深まったわけでありますがw
最後に、電車男がヲタを卒業したかのごとく、毅然とした態度で描かれるシーンがあります。実際のところ、今電車男さんが、どのように過ごされているかはわかりませんが・・・・
ヲタの魂、死ぬまで不滅 です
原作では、告白の日の朝にもアニメチェックを怠らない電車男がいます。結局、ヲタがヲタである事を否定することは自己の否定に他ならないと思うんですが・・・
最後に、ヲタの拡大について。
ニッチな市場ではありますが、ヲタ市場は年々拡大しています。その市場規模はビジネスにおいて無視できない程になっています。当然ヲタ市場に一生を捧げ働く人も増えているわけです。当然、彼らの内からもヲタが培養されるでしょう。
映画ではコミカルに描くため、挙動不審で決断力がなく、データ・マニュアルに頼る人間として、ヲタを描いています。しかし実際のところは、個々人の能力によるものだと思います。無駄に能動的なヲタも存在するわけです。
集合にレッテル貼り・ラベリングする傾向を、日本人は好むように思えます。その延長線上、集合の定義の真偽について確認したり、集合内の要素の相違点について観察する事を、放棄する事も多いように思えます。
結局ヲタってなんなんでしょうか?
主体の趣向の問題なのか、
客体のジャンルの問題なのか、
色々と定義は存在するようです。
私としては、
ある特定のジャンルに対して執着し、それ以外の事、特に大衆が好むジャンルへの興味が希薄な人。
客体は、ニッチなジャンル全般になり、
主体は、コミュニケーション不全の要素を帯びる事もある。
以上のように理解しています。
ニッチなジャンルは時代と共に変遷するわけで、
「ポケモン世代」が大人になる時代には、相当な意識変遷がなされるはずです。
また(ライブドアの某社長の言葉と同じになりますが)、高度情報化社会では、マスよりもニッチへの傾向が高まるでしょう。ニッチな市場の絶対数が拡大するわけです。自ずから、各市場にヲタが発生することは間違いありません。
それでいて一般大衆の概念も消滅することはありません。日本人は特に大衆への帰属を好む傾向があります。したがってヲタの受難はこれからも続くことになるし、隠れヲタが増加する事になるでしょう。
将来的には、隠れキリシタンを探すごとく、隠れヲタへの踏み絵が流行るとみたw
映画のコメントを書くつもりが、大きく脱線 (^^;
オチなし



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